「杉原千畝命のビザ」パネル写真展
151114杉浦千畝と命のビザ写真展 from 河谷杯歩 on Vimeo.
杉原千畝
(すぎはら ちうね)、SUGIHARA"Sempo"Chiune
1900年(明治33)1月1日一1986年(昭和61)7月31日外交官。
第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて、現在数十万人以上にも及び、世界各国で活躍している。
海外では、センポ・スギ八ラ、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる、「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
ビザ発給後の杉原千畝
1947年杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの解職であった。その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。しかし、1968年8月、突然に杉原ヘ一人のユダヤ人殻連絡があった。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。翌年、彼らを救つた功績力から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣より勲章が授与された。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシ江ム賞)」を受賞した。
命のビザとは、リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理によって、ユダヤ人難民に発給された日本通過ビザをいいます。1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込みました。しかし、ソ連によるリトアニア併合が確実となり、彼らには日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという方法しか残されていませんでした。1940年7月18日、ビザを求めたユダヤ人難民が領事館へ押し寄せたため、杉原は本国ヘビザ発給を打診しますが、回答は「NO!」でした。しかし.彼は悩み苫しんだ末、命令に反してユダヤ人難民にビザを書き始めました。それは、人道・博愛精神第一という大きな決断でした。
生い立ち
1900年(明治33)岐阜県加茂郡八百津町北山に生まれる
1918年(大正7)早稲田大学高等師範部(現在の教育学部)英語科予科に入学
1919年(大正8)外務省留学生採用試験に合格
外務省ロシア語留学生として八ルピンに留学
1924年(大正13)外務省書記生として採用
在ハルピン総領事館の勤務を命ぜられる
1932年(昭和7)満州国外交部特派員公署事務官に任命
1935年(昭和10)北満州鉄道の譲渡交渉で活躍する
1936年(昭和11)菊池幸子と結婚
1937年(昭和12)フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任
1939年(昭和14)リトアニア・カウナス日本領事館領事代理に任命
1940年(昭和15)ユダヤ人難民が領事館に集まる
ユダヤ人難民に大量のビザ発給を始める
領事館閉鎖後ホテルへ移動する
カウナス駅からベルリンに向かう
総領事代理としてプラハに赴任
1941年(昭和16)東プロイセン・ケーニヒスベルク日本総領事館に赴任
ルーマニア・ブカレスト日本公使館に赴任
1945年(昭和20)ブカレストの捕虜収容所に入る
1947年(昭和22)ウラジオストクから興安丸で博多港に上陸
外務省を退職
*この間沼津にて居住
1947年(昭和22)(株)世界平和建設団事務局に就職、以後9回職場を変わる
1968年(昭和43)ユダヤ人難民だったニシュリと再会
1969年(昭和44)イスラエルで政府宗教大臣より勲章を授与
1975年(昭和50)国際交易(株)を退社、モスクワより帰国
1985年(昭和60)イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシエム賞)1を受賞
1986年(昭和61)鎌倉にて永眠(享年86歳)
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 2019年11月30日朝 港大橋からの富士(2019.11.30)
- 沼津西武懐かしパネル展(2019.03.01)
- 平成30年4月22日幸寿会総会動画(2018.04.25)
- フリーマーケットフェスティバル&消費生活展(2018.02.04)
- 平成30年1月1日(月)富士山と象山の初日の出(2018.01.01)
コメント