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平成30年度沼津ユネスコ総会:記念講話


富士山の成り立ちや信仰
沼津ユネスコ協会総会記念講話で解説
 沼津ユネスコ協会(原博男会長)は、総会記念講話「富士山の自然と世界文化遺産」を二十二日、ホテル沼津キャッスルで開き、一般にも公開した。同協会が取り組む地域の伝統文化や文化遺産の情報普及の一環。
 県遺産センター職員講師に
 登山の意義、昔と今の違いなど学ぶ
 富士山は五年前、UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産として認定され、昨年十二月、県は「静岡県富士山世界遣産センター」を富士宮市に開館。今回の講演会では、同センター企画総務課教育普及班の植野秀樹主幹が講師を務めた。
 植野さんは冨士山の高さとして一般に言われている三、七七六㍍は、富士山の最高峰の剣ヶ峰の三、七七五・五一㍍、その近くにある岩の三、七七六・二一㍍の平均の数字であることを話した。そして、富士山頂での積雪量は四月が最も多く、周囲に風を遮るもののない独立峰であることが大きく影響しているという。
 富士山は成層火山のため独立峰となり、上空から見ても円錐形をした美しさと、日本一標高が高いことから自然の厳しさを併せ持つ。成層火山は度重なる噴火によって出来るもので、噴火をもたらす溶岩は地殻運動によって生じる。その地殻運動は地球の表面を覆う厚さ百㌔程の数十枚の岩盤が重なったプレートによって起きる。
 富士山付近では、このプレートが複数、重なることによって、多量のマグマが出来て富士山を造ったと考えられる。このプレートには、大陸を形成するユーラシアプレートと北米プレートの二種類、さらに海洋側のフィリピン海プレートがあり、これらが重なった所が富士山の場所と重なる。
 さらに、これらの下に海洋側の太平洋プレートが沈み込み、地下深くで圧縮されて高温となり、溶岩が出来て火山活動を起こす。噴火活動は長い時間の中で起きたもので、富士山の形成は数十万年前から繰り返された噴火によるものだという。
 まず数十万年前からの噴火によって先小御岳(せんこみたけ)が出来、二十万年前頃からの噴火で小御岳が出来、さらに十万年前からの噴火によって古富士が出来た。現在の形の新富士は一万年前頃からの噴火によって形成されたと考えられている。
 最近の噴火は宝永四年(一七〇七)に起きたもので、この時に山体の一部が盛り上がった状態になったのが宝永山。この時のことは多くの記録が残されており、火山灰、火山岩が偏西風に乗って、現在の東京都や千葉県にも届き、これらの地域で四、五センチ積もったとされる。
 当時の儒学者、新井白石によると、昼でも灯籠をつけないと書物が読めないぐらい暗い状態だったという。
 現在では年間三十万人以上が登っている富士山だが、千二百年程前には噴火活動が盛んで、登れる山ではなかった。
 植野さんは、この時代の冨士山について「正確な記録で三百年の間に七回、噴火している。当時は、かなり噴火し、登ることはできなかった。噴火しているのを見て拝むしかできなかった」とした。
 そして、拝む場所の一つとして富士宮市の山宮(やまみや)浅間神社が残されており、「昔の人は冨士山に神様が宿っていると考えた。神様のご利益を得るために富士山を拝.んでいた」と話した。
 富士山は奈艮、平安時代に盛んに噴火していたとされ、その後、噴火が収まると富士山を修行の場とする人達が現れる。修験者(山伏)達のことで富士宮市に村山浅間神社があり、この神社を開いた末代上人は数百回以上、富士登山したとされる。
 また、富士山本宮淺間大社所蔵の「絹本著色富士曼茶羅図」は室町時代に描かれたとされ、富士登山の様子が描かれているが、よく見ると登山者が松明を手にしている。
 植野さんによれば、「わざわざ危険な夜に登山をしているということは来迎を目的としたもの」だという。
 当時は、プロッケン現象と言い、太陽と反対方向に雲粒や霧粒で太陽光が拡散されて出来る虹色の輪の中の影のことが知られておらず「大日如来」が来迎したと考えられていた。夜中に登り、朝山頂で拝むものは日の出ではなく大日如来だった。
 現在でも夜中に富士山に登る人はいるが、これは大日如来を拝む御来迎」(こらいごう)のためではなく、日の出を拝む「御来光(ごらいこう)」のため。昔と今と登る意昧は違っても、「富士山は特別な存在ではないか、という考え方は現在も引き継がれている」と植野さん。
 十六世紀から十七世紀にかけて長谷川角行という人が富士山の洞窟などで修行をしたと伝えられているというが、十八世紀前半には食行身禄(じきぎょうみろく)という、富士信仰を広めていた人物が当時の飢饉などから世を救うため自ら命を絶つ入定を果たした。
 その影響もあり、江戸では「富士八百八講」と言われるほどに多くの富士講、現在でいう宗教団体が出来た。富士講では講ごとに代表者が富士登山をすることが流行した。
 富士登山は山伏がきっかけであることもあり、山伏が登山の際に口にする「六根清
浄」(ろっこんしょうじょう)が訛(なま)って「ドッコイショ」になったとも言われている。
 また、東京などでは冨士山の火山岩を持ち帰り、その岩で小山ほどの塚を造って「富士塚」と称し、昔は女人禁制だったことなどから、富士登山ができない人が富士塚に登れば同じご利益があると言い伝えられた。今でも富士塚の周りで祭りをする風習が残っている地域もある。
 富士山周辺でも、聖域と呼ばれる地を巡る「巡拝」という信仰形態が生まれ、植野さんは「信仰の歴史は(遠くから拝む)遥拝、登拝、巡拝と変化した」と説明した。
 このほか植野さんは、ゴッホの作品に浮世絵や富士山の絵を背景にしたものがあったり、作曲家のドビュッシーの自宅に葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)の絵が掛かっている写真があったり、西洋芸術に富士山が与えた影響を語った。
さらに、生涯にわたって富士山を撮り続けた写真家、岡田紅陽の作品「湖畔の春」は現在も千円札の裏面に印刷されていることを話し、「富士山は絵画だけでなく、いろいろな芸術のテーマになっている」ことを指摘した。
 この後、エジプトのアスワンハイダム建設当時、三千五百年近く昔の王を祭るアブシンベル神殿などの遺跡がダム湖に沈む危機を、遺跡を高台に移設することで救ったのがきっかけで世界遺産の認定事業が始まったことを説明。
 世界遺産について定めた文章には保護管理や活用のための拠点施設を整備する規定があり、山梨県は「山梨県立富士山世界遺産センター」、静岡県は「静岡県冨士山世界遺産センター」を、それぞれ建設した経緯がある。
 植野さんは静岡県側のセンターについて、富士登山を体験するような施設の構造になっていて、施設内で富士山について学べる展示があることなどを説明した。
【沼朝平成30年5月31日(木)号】

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