2020年1月
映画「沼津兵学校」今井正監督Ⅱ
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沼津市明治史科館通信 2007.10.25(季刊年4回発行)Vol.23No.3 通巻第91号 シリーズ 沼津兵学校とその人材 82 映画「沼津兵学校」のこと 二六歳の若き今井正の監督処女作である映画「沼津兵学校」(昭和一四年、東宝映画、白黒・八一分)は、沼津兵学校の二人の生徒、長州藩から来た千倉俊平と旧幕臣出身の栗野正邦との確執と和解の過程を描いた、青春モノである。決して戦争礼賛の国策映画でない。脚本は片桐勝男・八木隆一郎の二人。八木は秋田県生まれで、青森県五所川原で文学に目覚め上京、左翼運動の経験もあった。 監督今井も、戦後は「青い山脈」「ひめゆりの塔」をはじめ、民主主義を謳歌し社会正義を訴える作品を次々に発表した人であり、左翼思想の持ち主であった。今井は初めてメガホンを取るにあたり、撮影所長から「沼津兵学校」と「札幌農学校」のどちらかを選べと指示され、沼津兵学校のほうを選んだのだという(市原正恵「今井正監督の手紙-処女作『沼津兵学校』をめぐってー」『静岡の文化』第四七号、一九九六年)。今井は後年、この作品について、アマチュアの作品のようで恥ずかしかったと回想している(『今片正「全仕事」ースクリーンのある人生ー』、一九九〇年)。なお、八木隆一郎作「沼津兵学校」は、映画と同じ昭和一四年二月、新橋演舞場において新国劇としても初上演されている。 軍国主義を直接的に助長するものではなかったとしても、映画「沼津兵学校」が制作された背景としては、以下に引用するような解釈も成り立つ。「日本人同士には敵も味方もない。薩長と幕府は真の敵同士ではなく単に見解の相違で対立しただけであり、どっちも誠実に日本を憂えたのだ、真の敵は外国だ、という考え方に役立ったからである」(佐藤忠男「映画にみる敗者の復権」『太陽』第一七〇号・特集悲劇の明治維新、一九七七年、平凡社)。この作品も戦争という時代の制約から無縁ではありえなかったといえよう。 千倉を演じた黒川弥太郎(一九一〇~八四)は、戦後は大映・東映の時代劇に多数主演し、テレビにも進出した。栗野役の大川平八郎(一九〇五~七})は、戦後もアメリカ映画「戦場にかける橋」に助監督兼俳優として参加するなど、やはり活躍を続けた。一方、頭取の西尾周三(西周がモデル〉を演じた丸山定夫(一九〇一~四五)は、広島の原爆で死亡した悲劇の俳優として知られる。 しかし、筆者のようなテレビ世代に馴染みがある出演俳優は、花沢徳衛(一九一一~二〇〇一)だけである。ただし、全くのちょい役であった。花沢は、白分の名前が初めてポスターに印刷された作品として映画「沼津兵学校」を以下のように回顧した。「私の役というのは、講武所風の髷を結った旗本の子弟の役で、試験を受けて落第する。見せ場としては、その一シーンだけ。後は何百人という人数で、ぞろぞろ歩くだけだから、どこに出ているのかわかりはしない。」(花沢徳衛『脇役誕生』、一九九五年、岩波書店)。 さて、映画の内容であるが、時代考証として、史実と比べてみた時、たとえば以下のような諸点に注意を払っておきたい。① 入学試験の面接で、安禄山とは何かと質問され、中国の山の名前であると答える受験者。これは、篠田鉱造著『増補幕末百話』(一九二九年〉等に載っている逸話であり、脚木執筆には同書が参照されたらしい。② 授業風景の中に西洋人の教師が教えている場面がある。沼津兵学校はもちろん、静岡藩にもお雇い外国人は存在しなかったので、このシーンは誤りである。アメリカ人クラークが静岡学問所に赴任したのは廃藩後のことである。③ 大砲の発射訓練をしている場面。シナリオ(一九三九年発行『映画評論』第二一巻第二号に掲載)では、これがアームストロング砲であるとなっている。愛鷹山で発射訓練をするとの布達が残っているので、沼津兵学校に大砲があったことは間違いないが、その種類は不明である。④ 生徒たちが揃いの軍服を着ている場面があるが、実際には制服はなく、調練の時なども和洋まちまちで各人各様の服装をしていた。⑤ 明治新政府の兵部大輔大村益次郎が視察に訪れる場面。このことを記した文献もあるが、実際に人村が沼津兵学校を訪問した事実は史料上確認できない。⑥ 生徒たちが寮の食堂を打ち壊す場面。これは後世の旧制高等学校での賄征伐のようすを描いたものであり、実際にバンカラの気風はあったものの時代設定が違う。⑦ 廃校にあたり、引率教官が訓示を与え、生徒たちが沼津を去っていく最後のシーン。実際は、明治五年五月東京へ向かった資業生六三名は、教官の引率ではなく、生徒の中から選ばれた責任者が指揮官となり行軍、上京した。(樋口雄彦)・・・・・
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